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『週刊金曜日』2001年11月9日号:「誰が誰を恥じるのか」

ポット出版HP「伝説のオカマ」は差別か:「抗議」が議論と出会うとき
はじめに
「分断」発言が意味するもの
「おかま」と「ぼく」の間
「いちばん傷つく人」
「当事者」とは誰か
尊敬すべき先達
自分の人生
アンチ・ヘテロセクシズム

「伝説のオカマ」論争考

『週刊金曜日』が「東郷健」を採り上げた。2001年6月15日号「伝説のオカマ 愛欲と反逆にもえたぎる」がそれである。若きルポライター及川健二くんは、「東郷健」に何を見ようとしたのだろう?  思い切ったタイトルに、彼の意気込みがうかがえよう。
だが、このタイトルゆえに、物議をかもすことにもなった。すこたん企画が発売翌日に抗議の声を上げたのである。
一方、「抗議」に疑問を呈する動きも生まれて、一部アクティヴィストの間でさまざまな議論が展開された。ひとはそれを「オカマ論争」という。

すこたん企画の抗議の要点は、
「オカマ」という言葉によって傷付けられてきたゲイの気持ちがわかっていない、
当事者が使うこととマスコミのような非当事者が使うこととは似て非なることである、
「勉強会」で話したことがまったく生かされていない、
タイトルに使う必要はなかった、といったものであった。

「抗議」を受けて『週刊金曜日』は8月24日号で「性と人権」と題する特集を組んだが、今度はそれ以外のアクティヴィストからの批判を招くことになった。 すこたん企画以外からもさまざまな意見が寄せられていたにもかかわらず、それらは無視されて、すこたん企画の主張だけが特集の半分を占めていたからである。
すこたん企画とこの特集に批判的な人びとからの意見は、
「言葉狩り」的な姿勢では問題は解決しない、
「おかま」を自称する人びとを否定することになってしまう、
「当事者」だけが差別かどうかの判断が出来るかのようなすこたん企画の主張は納得できない、といったものであったように思う。
「当事者」を言うなら、まず、東郷健さんや及川健二くんの意見を尊重すべきではないかという意見も出た。9月30日には伏見憲明さんの呼びかけでシンポジウムももたれたが、 すこたん企画側の出席が得られなくて「対話」は成立していない。

こうした経緯をたどって、『週刊金曜日』は11月9日号で再度特集を組んだ。著者及川くんの反論とぼくの原稿、それと第三者の立場から志田陽子さんの論考とが採り上げられた。 志田さんの論文は憲法学と法理論、言説の権力性といった観点から書かれており、アメリカでの議論の紹介もされていて、ぼくはこれを参考にしながら、ポット出版のホームページに長文の原稿を書いた。
「論争」に感じていた物足りなさを、ここで補おうとしたのである。ぼくは「おかま」という言葉によって傷付いてしまうゲイの背景にあるもの、自己受容・自己肯定にとって基盤となるものについて、 この機会に書いておきたいと思ったのだ。

すこたん企画の「抗議」には納得出来なかったけれど、こうしていろいろ考えることが出来て、結果的には良かったのだろう。ぼくたちにとって、「東郷健」とはなんだったのか、 なぜぼくたちは彼をあんなにも嫌がっていたのか、「それ」をどう乗り越えたのか・・・。
ぼくはこれを、「伝説のオカマ」論争と呼ぶ。

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6月15日号『週刊金曜日』:「伝説のオカマ 愛欲と反逆にもえたぎる」(及川健二)

8月24日号『週刊金曜日』:「性と人権」特集
「私たちが声をあげたわけ」(伊藤悟・簗瀬竜太)、「検証・私たちの議論の日々」(編集部)、「セクシュアリティの基礎知識」(伊藤悟・簗瀬竜太)、「いつも側にいた『金曜日』」 (高橋タイガ)、「表現の自由と差別の再生産」(落合恵子)、「孤立は恐れないが連帯を求める」(佐高信)、「私が言える二・三のこと」 (筑紫哲也)、「激しい刺激」(椎名誠)、 「文脈の問題であり中身の問題」(本田勝一)、「やっとスタートライン」(辛淑玉)、「問われている私たちのこれから」(編集部)

11月9日号『週刊金曜日』:「『性と人権』私はこう考える」
「誰が誰を恥じるのか?」(平野広朗)、「私が伝えたかったこと」(及川健二)、「当事者としての言葉とメディアの権力性の両立について」(志田陽子)

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