ひとつの疑問文は、問題点が鮮明化する中で新たな疑問文を生み出す――昨年、大命題「ゲイ・リブとフェミニズムは出会えるか?」を引っさげて(ぶら下げて、かな?) 女のフェスティバルに初登場したOGCは、今年のテーマに「セクシュアリティは選べるか?」を選んだ。
ゲイ・リブがフェミニズムと接点をもとうと動き出して一年余り、ぼくたちはあちこちで新鮮な驚きとさまざまな発見にぶつかった。その中でも最も強く印象に残っているもののひとつは、
昨年のフェスティバルでの「レズビアンであることを選んだ」という発言だったように思う。
「気がついたらゲイだった」「ゲイとして生きていくしかない」としか言いようがないぼくたち大半のゲイにとって、「自ら選んだ」と言い切ることのできるレズビアンのこの発言は、まぶしい。
このまぶしさは、いったいどこから来るのだろう?
「私はレズビアンで、女の人はこんなにすばらしいと思う。もっとヘテロセクシュアルがどれだけ素晴らしいかをしゃべってよ」とレズビアン・フェミニストは胸を張る。
直接的には異性愛者に向けて発せられたこの言葉は、しかし、ぼくたちゲイにもずしりと響く。
今までゲイは「ゲイの素晴らしさ」について語ってきただろうか?ゲイであることをカムアウト(公言)している者でさえ、せいぜい「男を愛そうが女を愛そうが、
個人の自由。ゲイであることのどこが悪いのか! 」とつぶやいてきたに過ぎない。
マイナス・イメージをゼロに回復するための主張である。
いや、じつを言うと(つまり、大きな声で言うことに今はためらいがあるのだが)、ぼくには「ゲイであることを誇りに思う」と豪語(?)していた時期があった。十年以上も昔のことだ。 それは、初めて自分以外のゲイに出会った時期だった。隠しておくべきことでも隠すほどのことでもないと考えて、少しずつカムアウトしようと努力していた時期でもあった。
幸か不幸か、ぼくは自分がゲイであることについて、異常ではないか、病気ではないか、などと悩んだことはなかったが(単に忘れてしまっただけだったりして)、 世の中で少数派であるらしいことはよくわかっていた。あのころのぼくの「誇り」は、圧倒的(?)少数派であることの(ホントは、いっぱいいたりして) 不安を撥ね返すための強がりだったのだと、今にして思う。「ゲイであることを誇りに思う」と自分に言い聞かせることで、かろうじて立っていられる拠り所として。
ぼくにとっての「ゲイ・プライド」は、「ゲイであることを自己卑下する必要はないが、誇るほどのことでもないよ」という親友のひとことで氷解していった。肩から力みが抜けて、楽になった。 今は淡々坦々としてゲイである(多少の緩急凹凸《トロトロセカセカデコボコ》は、もちろんあるよね)。
レズビアン・フェミニストの誇りは、ぼくのかつての「誇り」とは、おそらく別のものなのだろう。それは、マイナスをゼロに回復するための単なる足場なのではない。レズビアンを選ぶことは、
マイナスをプラスに転換させることなのだ、と彼女たちは信じている。レズビアンを選ぶことで、男優位社会の中で受ける諸々の抑圧から解放されるのだ、と。
その根底には、抑圧を抑圧とも思わず特権を当然の権利と思い込んでいる男たちに対する、深い絶望が横たわっている。
彼女たちの想いは正しい、とぼくは思う。彼女たちはレズビアンの仲間に出会っておそらく初めて対等な関係性を自分のものとすることができたのだ――もちろん、主人主婦関係や親分子分関係、 保護依存関係といった男優位社会の呪縛から完全に自由になれたときに限ってのことだが――。レズビアンであることを選んだ、と誇らしげに宣言してみせる彼女たちの想いは、だから、わかる、つもりだ。
しかし、それでもなお、理論・理性によってセクシュアリティが変わり得るのか?という素朴な疑問は残る。
「あの人が好きだ」という気持ちの方が先に突っ走ってしまうのではないか?と(だって、「どうしてあんなしょうもないヤツのこと、好きになっちゃったんだ?」 とイラつきながらも好きであり続けること、よくあるでしょう?逆に、すばらしい人なのに、セクシュアルな対象にどうしてもならない人てのもいるよね)。 この点、ぼくは複雑な心境なのである。
というのも、ぼくは数年来の友人である女性とセックスしたことがあるのだが、これがそれまでぼくが男たちとしてきたセックスの多くより楽しかったのだ。
互いの性感帯を開発しあってたっぷり愛撫しあう彼女とのセックスは、それまでの男たちとのセックスに感じてきた不満が、ペニス周辺に局限された一方通行の虚しさにあったことを確信させてくれた。
それは多分、ペニスとヴァギナの結合を終着点とする男女間性交の方程式から、ゲイの性交も逃れきっていないことを示しているのだろう。
彼女とのセックスは十分楽しかった。
にもかかわらず、今もぼくは男が好きである。「ア、いいな」と胸をときめかせた人が女だったとわかったときのぼくの失望感。 あれはいったい何なのだろう?
「なぜゲイ(レズビアン)になったの?」と首を傾げる異性愛者には、「じゃ、なぜあなたはヘテロセクシュアルなの?」と訊き返してやればよい。異性愛を優位とする社会規範がなかったら、
あなただってゲイ(レズビアン)になっていたかもしれないよ、と。
しかし、ヘテロ社会の規範からはみ出してゲイであるぼくが、女とのセックスの面白さを体験し、たとえ一瞬とはいえ、(少年にも見える)女に目を奪われることしばしばであるのに、
それでも、男しか愛せないのはなぜなのだろう?
ゲイが、「ゲイであることを選んだ」と言うことができないのは、第一には、男しか愛せない、との思い込みが強いからだろう。選択肢はひとつしかないのである
(レズビアンもこの点では同じじゃないのかなあ??)。
第二には、ゲイであることをプラスに評価する自信がないからだろう。第三に、今まで自分のセクシュアリティについて深く考えてみたことがなかったからだろう。
そして、第二と第三の理由は、ひとつの事象から発生する。それは、ゲイは男である、ということだ。いや、とりあえず男である、と言うべきか。
男は自分のセクシュアリティについて深く考えてみる必要がなかった。男としての特権を享受している者は、抑圧されている者の痛みを知らないし、知る必要もない。何も考えなくていいのである。
下手なセックスを一方的に仕掛けておいて、女は喜んでいると勝手に思い込んでいれば済むからだ(女もうまく演《や》ってくれるし)。
男は射精のとき、誰でも一応はそれなりに瞬間的絶頂に登りつめるから、「一発抜いてスッキリ」することはたやすいのである。ぼくはこのごろ、男はペニス→射精などという条件反射を備えているために、
かえってセックスの悦びの広さ、深さを享受しそこなっているのではないか、と考えるようになっている。
男の性の貧しさはペニスに由来する(かわいいヤツではあるが)。
ゲイは(たいていの場合)ペニスをもっているので、とりあえずは男なのだが、ゲイだとバレると一人前の男として扱ってもらえないことが多い。男としての優位性にケチがつくのである。 そこでゲイ・リブのひとつの方向性として、この欠落部分を穴埋めし、一人前の男としての「市民権」を得ようとするものが出てくるのだが、ぼくほこうした運動には納得できないものを感じる。
昼の生活(ヘテロの仮面)と夜の生活(ゲイの素顔)を使い分けているゲイの大半は、男としての「市民権」を大切に守っているのだろう。しかし、この「市民権」は、自分の素顔・真情を疎外し、
「非市民」――女や「障害」者、老人、シングル――を抑圧することで成り立っているのだ。
「市民権回復・補強型」ゲイ・リブの行き着く先は、はたしてバラ色なのだろうか?
「男は、解放された男の姿(ヴィジョン)を示さない」という発言が、昨年のフェスティバルで出された。「男優位社会における地位とか名誉・特権を捨ててでも、
(解放されて)こんなにも素晴らしいものを得るんだ」と誰も言わない、と。
男女役割分担や「男らしさ」「女らしさ」規範をぶち壊し乗り越えたところで、どんな世界が開けてくるのか。男の特権は死守しながら、解放された豊かさも手に入れようというのは虫が良すぎる話だとして、
美味しい果実の可能性くらいは提示できなければ、誰も共感を示さない。
男の特権を一部享受しつつ男優位社会から鼻つまみされているゲイが美味しい果実の可能性を確信できたときこそ、「ゲイであることを選んだ」と胸を張って言えるときに違いない。
ゲイ・ヘミニストの憂鬱は、まだしばらくは続きそうである。
(1989.3.5)