疑問文は、希望、願望の仮の姿でもあり得る――つまり、「ゲイ・リブはフェミニズムと出会いたい」、あるいは「出会えるといいな」というのがぼくの本意である。そして、
もちろんレズビアン・リブとも出会いたいと思う。
しかし、本当に出会えるのか、どこで出会えるのか、どこまでともに歩めるのか?じつのところ、今はまだ疑問文のままである。(だから、「言い訳」なのです)
第一の問題点は、互いに互いをあまり知らないことである。まず、互いに名告《なの》りをあげるところから歩き出さねばならない。
ことにぼくたちゲイは、これまで他者に対して己を語ることをしてこなかった。語れる状況でもなかった。いま、少しずつ、本当に少しずつだけれども、語りだそうと動き始めている。
他者に己を語ることが理解→解放の第一歩であるとすれば、ゲイ・リブは歩き出したばかりと言える。まだ、右も左もわからない。
ゲイと一口に言っても、マスコミなどが喧伝する「ゲイ」は、ごく一部の者を表面的にあげつらったものであったりまったくの虚像であったり、迷惑な話ではある。とはいえ、 OGCがゲイのすべてを代表しているわけでも、その平均的な姿を代表しているわけでもないことを忘れずに言っておかなければなるまい。(いろいろな生き方のゲイがいるのです)
ありのままのゲイの姿を、ほとんどの人は知らない。それなのに多くは、「男と男が愛し合うなんて気持ち悪い」と言う。「男が女を愛する」というパターンしか頭にない人にとっては、
ゲイの愛のありようは理解の外なのであろう。
理解の外なるものに対して人は恐れを抱く。無知は偏見を生み、偏見と恐れは敵対心を生む。(そう。ゲイを差別する人はゲイを怖がっているのです)
怖がる、と言えば、フェミニズムを怖がる男も多い。ものの見方=男の立場を足元から揺さぶられるからだ。しかし、ぼくにとって、 フェミニズムによって「男の立場」が手ひどく批判されるのを見るのは、
正直言って快感なのである(マゾヒストかな?)。 それは、「男の立場」が「男かくあるべし」という規範を拠りどころとしているからであって、 若かりしころ「男かくあるべし=男らしさ」の前でうなだれていたぼくにとっては、それが攻撃されるのは積年のうらみが晴らされる想いがするのだ
(「男らしさ」よ青春を返せ! )。
「男らしさなんて幻想さ」とタンカを切ったときから、ぼくの人生は始まったと言っていい。
「男らしさ」とは、作られた幻想ではなかったか。子どもを産みたくても産めない男が作り出した幻想ではなかったか。男は、労働力であり財産相続人となり得る子どもを「我が子」とするために、
男女の役割分担を考え出し、男系の「家」制度、男中心の「結婚」制度を考え出したのではなかったか。「男らしさ」「女らしさ」幻想は、男優位の社会を維持する装置として、大いに役立った。
「婚外」性交で生まれた子まで戸籍上の夫の子としてしまう日本の民法が、子どもを産むことのできない男の立場の脆さ・危うさを物語っている。 (「男らしさ」に依りかからなければ立っておれない男とは、弱き者なのです)
「らしさ」幻想は男に対女性、対子ども優位をもたらしたが、その見返りとしてさまざまな重荷、負担を男に――その逆の抑圧を女に――押し付けてきた。男は天下国家のために、会社のために、
あるいは家族のために働かなければならない。「結婚」して妻子を養わなければならない、能動的に女子どもをリードしなければならない、泣いてはならない、強くあらねばならない・・・。
ある種の男はこの重荷を甲斐性と思い込み、自ら「男の立場」と受け容れていく。ある種の男はこの抑圧を抑圧と気付かないまま、なんとかやりくりしている。
しかし、シンドく思っている男も多いらしいことは、酒を飲んだ男が愚痴っぽくなることを見ても想像がつく。
そろそろ男対女構造の「らしさ」社会から降りたらどうだろう?――このあたりがゲイ・リブとフェミニズムとレズビアン・リブとが出会えるキーステーションとなるだろうと思うのだが、
じつは、これがなかなかの曲者でもあるのだ。問題点の二つ目がここにある。
つまり、ゲイは「男対女」の構造からはみ出していると思いきや、ちゃっかり男役・女役がいたりするのである。あるいは兄貴役・弟役、父役・子役ごっこがある。
それは能動と受動の役割分担であったり、保護と依存の上下関係であったりするのだが、「男女」関係のカスを引きずっている人たちは、そのことに気付いていないように思われる。
それほど「男らしさ」「女らしさ」幻想の呪縛はしぶとい。それが巧妙に作用している限り社会は揺らぐまい。(レズビアンの間では、こういうことはないのでしょうか?)
デジタルというやつが、何かにつけてぼくは嫌いである。かりに100%の男というのがあって100%の女というのがいるとすると、 ぼくたちはその二人の典型の間をアナログに浮遊しているというのが実情なのではなかろうか。そのことを素直に認めてしまうと、男対女の構造は崩れてくる。 異性愛と同性愛、両性愛の線引きも意味をなさなくなってくるし、男女の性行為をモデルにしたペニス主義、ヴァギナ主義の性行為も、もっと多様で自由なものになってくるだろう。 「性」がベッドからはい出して、街を歩き回ることにもなるだろう。(ちょっと話が飛びすぎた?)
自由豊穣な「アナログの性」が世の大勢とならないのは、それが怖いからである。「男」モデル、「女」モデルに自分を押し込んでおかないと自分が何者か規定できないのだ。
これは国家とか民族とかの集団に身をゆだねないと安心できない均質志向に通ずるものではないか。
なんとも頼りない「自我」である。(はたしてこんなのが、自我と言えるのでしょうか?)
「らしさ」モデルにすがらなければ立っておれない頼りない「自我」の集団が、「らしさ」からはみ出すものを排除しようとするのが、ゲイ差別、レズビアン差別の構造である。
異質を排除して自分だけ安心しようとする社会の性向は、「エイズ騒動」の中でより先鋭化してきた。「健全な性」「普通の生活」という耳障りのよいキャッチフレーズが、
「らしさ」社会への逆行を画策している。
「非生殖的性」の烙印を押すことで白眼視していたゲイ・レズビアンはもとより――人間の「性」の大半は非生殖的な快楽志向であるのに――、 「家」からはみ出そうとしているフェミニズムに対しても攻撃の飴が差し出されてくるだろう(攻撃するのに刃をもってするのは、もう古いのです)。
「らしさ」社会にぬめぬめとナメつぶされないために、ゲイ・リブとフェミニズムとレズビアン・リブが「出会えたらいいな」と思うのです。
(1988.3.6)
(注)当時は、「女性」とか「女の人」という言い方(「女性と男性」とか、ね)をして、いかにも「女性差別はしていません」といったフリをすることに胡散臭さを感じていたので、 わざと「女」という言葉を多用して意気っていた。このごろは、だんだん「鼻」が麻痺してきたような気がするなあ。