「OGC」はアバウトなグループである。「アメーバみたい」と言われたことも、「つるむのが嫌いな人たちの集まりですね」と言われたこともある。どちらも、当たってる。
発足以来15年になるが、会則もないし役職も置かない(「抗議文」を出すときなどに、便宜上「代表者名」を書くことはある)。 会員制もとらない(自分が会員だと自覚している人が会員)。通信購読費として年2000円。これらは発足以来、変わっていない。変わったのは、 通信費が切れた人には「にゅうす」を送らないようになったことくらいだが、それにも半年間くらいの「アバウト」(猶予期間)がある。
こんなOGCも、当然のことながら、突然降って湧いてきたわけではない。前身は「IGA日本・大阪」(東京側では「大阪支部」と言っていた)。 1984年9月ごろに発足したようだが、ぼくはそのころのことは知らない。ぼくが「ゲイ・リブ」と初めて出会ったのは、1986年8月31日、「ゲイ・ユースのゆくえ」と題したミーティングに参加したときだった。
30数人の若いゲイが、明るい昼間っから大阪府立青少年会館の一室に集まって話し合いをもっていた。当時でもぼくは「若者」とは言えない年代だったが、彼らのようすを見て、未来は明るいと思ったものだ。
若専ゆえのスケベ心も手伝って、このとき以来一参加者として会合に参加しているうちに、まあ、いろいろ事情があって、ぼくが「支部長」に・・・さらに、87年10月、
「OGC」に衣替えすることとなった(→発足の顛末)。
「OGCにゅうす」の第一号は87年10月27日に発行されている。 途中、発行間隔が乱れたり、通し番号を付け忘れるようになったから正確にはわからないものの、
多分、2002年の8月25日号が150号くらいに当たる。なんせ、アバウトなもんだから、「活動内容」について問い合わせがあっても答えるのに戸惑うほどだか、 88年3月の「女のフェスティバルin京都」に参加するに当たって、「マニフェスト」のようなものを書いた。 OGC唯一の正式な(?)説明書である。 ただし、季刊誌「結びっ子」は、今は発行していない。
あ、そうそう。「OGC」というのは説明的に言ったら「大阪ゲイ・コミュニティ」である。が、「OGC」が正式名称。「ゲイ」という言葉が表面に出るのをはばかって、 アルファベットの略称でもって「ゲイ」を隠そうとするなんて姑息なことはしないで、最初っからアルファベットでいこうというのが、当初の合意事項だった。いまとなっては、まあ、どうでもいいこと、かな。
| 1987年 9月23日 |
「IGA大阪3周年記念パーティー」(3年目に突入ということね)になるはずのミーティングが、「IGA日本」からの独立(?)前夜となるパーティーに。 パーティーそのものよりそのあとの二次会のほうが、お堅い会合(会の将来をどうするかという話し会い)になった。 |
| 1987年10月27日 |
「OGCにゅうす」1号発行。 |
| 1987年11月15日 |
セミナー(当時は例会を「セミナー」と呼んでいた)。テーマは「アメリカのゲイ・センター、エイズ・カウンセリング――アメリカ取材報告」。 |
| 1987年11月15日 |
「結びっ子」創刊号発行。 |
| 1988年 2月14日 |
セミナー「坊さんとゲイ」。浄土真宗大谷派の僧侶、南溟寺の戸次公正さんを招いて、仏教では同性愛についてどんな風に教えているか、お話を聞く(ちなみに、 1987年6月7日の「IGA大阪」時代には精神科の医師、湖南病院院長の木田孝太郎さんを招いて「同性愛=異常説は成仏したか――精神科医の見た同性愛」というテーマでお話を聞いている)。 |
| 1988年 3月6日 |
「女のフェスティバル in 京都」に参加。「れ組スタジオ東京」と共催で、分科会「ゲイ・リブとフェミニズムは出会えるか?」をもつ(「れ組」のほうが、 事前に会員にアンケートをとっていたりして、準備万端整え、会をリードしてくれた、と思う。OGCはぼくが「趣意書」を書いて提示したくらいか。 このとき初めてOGCはマニフェストみたいなものを作った)。こういうテーマの分科会は初めてのことで大盛況、報告集は売り切れとなった。 |
| 1988年 3月下旬 |
「ウーマン・リブ」のグループに促されて、「エイズ予防法(案)」に反対する運動に取り組み始める。ともかくまず、署名活動を一緒に始めることに。 |
| 1988年 4月20日 |
厚生大臣藤本孝雄宛に、「エイズ予防法(案)に反対するとともに、抜本的エイズ対策を求める要望書」を送付。 |
| 1988年 5月10日 |
エイズ予防法案反対集会。ここで、「エイズ予防法案に反対する大阪連絡会」を結成(OGCのほかに、優生保護法改悪阻止大阪連絡会、母子保健法改悪に反対する女たち大阪連絡会、 子どもと女性の未来を託して児童扶養手当改悪に反対する大阪連絡会、女のためのクリニック準備会、バイオ研は危険だ!%nbsp;市民連絡会)。 6月9日には大阪府知事・環境保健部長宛てに、患者のプライバシー漏洩事件に関する求釈明と、今後の対応・対策に関する質問状を送付。21日には環境保健部予防課と交渉。 |
| 1988年 7月10日 |
「大阪連絡会」の呼びかけによる予防法案反対パレード。晴天のもと、御堂筋を気分よく歩く。OGCからも数人が参加する。 |
| 1988年 7月18日 |
反対署名を提出するとともに、厚生省感染対策室と交渉。議員数人にも面会を求める。(「エイズ予防法案に反対する大阪連絡会」) |
| 1988年 9月18日 |
要望書を国会社会労働委員会に提出(But、12月23日成立)。 |
| 1988年 ・・・ |
「HIVと人権・情報センター」の設立に、少し関わる。 |
| 1988年11月下旬〜12月上旬 |
(OGCが主催したわけではないけれど)映画「ハーヴェイ・ミルク」上映会(大阪、京都)。11月27日には対談の会(中島らもさん、宮迫千鶴さん、司会:平野)。 |
| 1989年 1月以降 |
この年の新年会(1月15日)から、例会を「明るくゲイを語ろう会」と名付ける。1回目はフリートーキング。以後のテーマは「結婚強制社会から脱け出す」 「ゲイは性教育にどう切り込むか」「オトコをおりることができるの?(ゲストとして「わたし」という一人称を使っている3人の学生さんに来てもらう)」(1989.9.10)、 「ゲイは本当にオンナ嫌いか」「男の紋切り型辞典! 」「カムアウトしよう! 」「聖書の中の同性愛差別(ゲスト:日本基督教団元副牧師の竹内のぞみさん)」(1990.6.10)、 「テレビの中のゲイ差別」「ゲイが青年の家に泊まって何が悪い! 」「近代社会はセクシュアリティを抑圧する(ゲスト:フェミニストの大越愛子さん、源淳子さん)」(1990.11.18)、 「『プライベート・ゲイ・ライフ』を読む」「ニューヨークのゲイ・プライド月間のこと(ゲスト:映画評論家の故井上保さん)」(1991.8.11)、「性暴力の本質を考える」など。 |
| 1989年 3月5日 |
「女のフェスティバル in 京都」に参加。YLP(ヤンチャ・レズビアン・パワー、OLPの前身)と共催で分科会「セクシュアリティは選べるか?」をもつ (→「趣意書」のようなもの)。 |
| 1989年夏 |
個人的なことだけど、このころ出た岩波書店の「ジュニア新書161」『高校生の正しい夏』にインタヴュー(?)記事が載る。 |
| 1990年 3月11日 |
「女のフェスティバル in 京都」参加。この年からOGCは分科会などを主催するのではなく、「あなたの夫や子どもをゲイに預けてみませんか」と銘打って「託男所・託児所」をすることに。 ゲイが「子ども」と関わることで、ゲイの側にもヘテロの側にも変化が生じるのではないか、という試み。 |
| 1990年 春〜夏 |
「府中青年の家差別事件」(『アンチ・ヘテロセクシズム』参照)に関して、 東京都教育委員会に質問状・抗議文を出す。大阪の市民団体に抗議活動の協力要請をする。(8月20日には、関西テレビの「とぅぎゃざー」に出演。 東京から風間孝さんと掛札悠子さんにも駆けつけてもらって、「府中青年の家問題」を中心話題においてレギュラーメンバーと討論した) |
| 1990年11月 |
映画「らせんの素描」(『アンチ・ヘテロセクシズム』参照)の大阪上映に向けて、批判行動。 |
| 1990年 年末〜91年夏 |
「反天皇制のうねりを!%nbsp;関西連帯会議」が90年秋に発行したリーフレートにゲイ差別的な文章(ペンネーム:芸野達人)があったとして、 OGCの一メンバーが抗議。数度にわたって「うねりの会」とOGCスタッフとが話し合いを重ねる(問題の文章は、「妃」の選考が難航していた皇太子に対してゲイが立候補してあげる、という戯文。 天皇制・結婚制度をからかうためとは言え、「ゲイ」を安直に利用した点が問題。「セクシュアリティの問題に無頓着な運動体はニセモノだ」と、ぼくは主張する) |
| 1991年 4月2日〜4日 |
AIDSメモリアル・キルト in JAPAN の京都展(京都市立美術館)。OGCも少しだけ協力。 |
| 19991年11月3日〜4日 |
最初で最後のOGC合宿(淡路島の民家をお借りして)。参加者12人(くらい)。 |
| 1992年 4月19日 |
「明るくゲイを語ろう会」の場外イヴェントとして、メモリアル・キルトを日本に紹介した染色家の斎藤洋さんのアトリエを訪ね、 「野染め」体験 (アトリエの中でやったから、「野」じゃないけど)。張り渡した布に、思い思いの染料を塗りたくって、 色の重なり具合や混ざり具合を楽しみながら開放的な気分を味わった。 |
| 1992年 6月7日 |
例会「明るくゲイを語ろう会」の会場を、吹田市にある市民団体の共同事務所「えぽっく」に移すとともに、毎月第一日曜日2時からと、日時場所を固定することに。 移転後の第一回目は朝日放送のドキュメンタリー番組(テレメンタリー)「My Teacher's Love――ゲイ先生の日常風景」を見る(ぼくの日常生活や学校での授業風景、 OGCのメンバー・インタヴューなど。「見せ場」として、ドライブ・シーンなんかもサービスしておいた)。 |
| 1992年 9月5日・6日 |
例会に代えて「もうひとつのエイズポスター展」関連のイヴェントに参加。5日はヴィジュアル・エイズの代表でもある舞踏家の霜田誠二さんの講演とパフォーマンス (大阪市西成区の「きじむなあ」にて)。 |
| 1992年 9月ごろ |
イギリスの売春女性のグループ(English Collective of Prostitutes)がエイズと女性をテーマに作ったパンフレットを、3年越しで翻訳、出版する (「エイズ予防法案に反対する大阪連絡会」)。『AIDS:セクシュアリティと差別――イギリス売春女性からの提言』 (原題:Prostitute women and AIDS:Resisting the virus of repression) |
| 1992年10月4日 |
「明るくゲイを語ろう会」でフジテレビのドキュメンタリー番組(NONFIX)「ピンクトライアングル――素顔の同性愛者たち」を見る (東京のゲイ・グループ、OCCURやILGAなどの活動を描いたもの)。 |
| 1992年11月3日 |
ぷあぷあ(現・G-Front関西の構成グループの一つ)が初めて大阪大学学園祭に打って出た企画「いったいゲイってなんやねん! 」に参加 (朝日放送のドキュメンタリー「My Teacher's Love」の上映、講演)。 |
| 1993年 2月12日〜14日 |
札幌のゲイ・グループ「札幌ミーティング」に招かれて講演。ぼく以外にも大阪から2人札幌に飛んで、交流をもつ(ちなみに、ぼくはこのときが飛行機初体験。ただで乗せてもらいました。 14日には伊丹の公民館で鼎談のイヴェントがあってとんぼ返り。空港に迎えに来てもらって鼎談会場に直行するという、タレント並みの?スケジュール。暇してる今とは大違い)。 |
| 1993年 3月19日・25日 |
全逓奈良北部支部青年部主催の学習会で、エイズ問題について講演。OGCと主催者である青年部の執行委員とで、数回にわたる話し合いを持ちながらの学習会となる (19日生駒市、25日奈良市。演題に「エイズなんかこわくない」という挑発的なタイトル――河出書房新社のムックのパクリだけど――をつける。怖いのは差別だ、との意)。 |
| 1993年 4月・・・ |
PLHNET(プラネット――ロゴではAとHの中間?かな。HIV/AIDSとともに生きる会。京都を中心に活動するグループ)設立にすこし関わる。 |
| 1993年 5月16日 |
PLHNET最初の「エイズ・キャンドル・パレード」。京都市役所から河原町通を南下して円山公園までを蝋燭をともしながら歩く。沿道の商店街にも店頭にレッドリボンを掲げてもらうように、
呼びかけのアウトリーチなどをして啓発に努めるのが活動の一環。 |
| 1993年 7月4日 |
「明るくゲイを語ろう会」に横浜から福田稔さんを招いて「Minoru&Me」を観る(ヴィデオにて)。これは陸上では日本初公開だったらしい (ピースボート船上での上映が最初?か)。のちにレズビアン・ゲイ映画祭でも上映された中田統一さんの作品。 |
| 1993年 9月5日 |
例会として、一人芝居「冬の銀河」(HIVと人権・情報センター主催。原作:草伏村生、脚本・演技:茅野明)鑑賞。観た後で、会場近くの四天王寺の芝生の上で例会のおしゃべり会。 |
| 1993年10月29日〜11月5日 |
レズビアン・ゲイ映画祭 in 京都・大阪。いままで東京だけで行われてきた映画祭が、関西にもやってきた。OGCも場外でブース参加した。 |
| 1993年11月7日 |
例会「明るくゲイを語ろう会」を読売テレビが取材(阪大学祭も)、11日夕方のニューススクランブルで流す。が、キャスターのコメントが差別的であったとして、 ぷあぷあと共同で抗議。 |
| 1993年12月12日 |
PLHNETと共催でパネル・ディスカッション。「エイズをめぐるセクシュアリティ」と題して、ゲイ・レズビアン・ヘテロ男・ヘテロ女をパネリストに、各自のセクシュアリティを語り合ってもらった。 |
| 1994年 7月3日 |
この月の例会から会場を西成区の「ピースクラブわがや」(障害者の自立生活共同ホーム)に移す。テーマは花田実さんの問題提起を受けて「障害者のセクシュアリティとゲイのセクシュアリティ」。 会場を移したのは、「えぽっく」は4階なのにエレベーターがなくて、障害をもった人に参加してもらいにくいという理由から。 |
| 1994年 8月7日〜12日 |
AIDS国際会議 in 横浜。OGCは「エイズ予防法に反対する大阪連絡会」と共同でブース参加をしたが、他のグループと違って、「日本に来る以上、日本語くらい覚えて来い」
というスタンス(?)でいたために、パンフレットなどを英訳しておくなんて考えつきもしなかった。ということで、あんまり交流できないままで終わる。 |
| 1994年11月23日 |
(これも個人的なことだけど)京都大学学園祭での「プロジェクトP」主催、「ゲイの11月祭天国」に呼ばれる(浅田明さんとの対談)。 |
| 1995年 1月15日 |
OLP発足記念パーティの「お客さん」になることで、OGCの新年会も兼ねる(レズビアン・パワーに圧倒される)。 ここで、中田統一さんの新作 「大阪ストーリー」の日本初(?)上映会。 |
| 1995年 8月6日 |
例会を箕面市での「女性フェスティバル」参加に代える。田中美津・平野広朗対談「かけがえのない、大したことのない私――みつとヒロの生きたい放題」。 |
| 1995年 8月27日 |
第二回レズビアン・ゲイ・パレードに参加(第一回目の94年のとき、ぼくは太平洋の上で――ピースボート船上――、パレード成功のニュースを聞いた)。 |
| 1996年 8月31日 |
第三回レズビアン・ゲイ・パレードの運営に関して、実行委員会・南定四郎さんに抗議のお手紙(私信)を送る。(パレードは8月25日) |
| 1996年 9月21日 |
フォーラム「『愛してる』と言われたいあなたへ――セクシュアリティと家族制度をめぐって」にOGCメンバーがパネリストの一人として参加。ほかにセックス・ワーカー、 レズビアン、在日朝鮮人、トランスセクシュアル、研究者がパネリストに。(ぼくは残念ながら、「平野さんに会いたかった」という人に捕まっちゃって会場の外でずっと話し込んでいたから、 トークの内容はほとんど聞けなかった) |
| 1996年 9月22日 |
「鬼塚直樹さんを囲む会」。メモリアル・キルト、奈良HIVネットワーク、エイズ・ポスター・プロジェクト、京都YWCA若者・女性とHIV/AIDSプロジェクト、 ヘルスケア研究会と共催で、アメリカのサンフランシスコ周辺で、在米日本人へのAIDSボランティアのコーディネーターをしている鬼塚直樹さんをゲストに、 AIDS-NGOのあり方やボランティアの育て方などについてお話をうかがう。 |
| 1997年 3月10日 |
ゲイ雑誌『薔薇族』編集長・伊藤文學さんに抗議文を出す。 |
| 1997年 5月3日〜5日 |
高知県立美術館でのエイズと美術をめぐるイヴェントに、OGCメンバー数人も参加する。(4月2・3日には四国学院大学で池田久美子さんが――チャペルの中で――講演。聞きに行く) |
| 1999年 4月4日 |
例会として福田稔さんと花田実さんを招いて「障害者とさまざまな性――おもろい人びとと出会う」と題した対談の会を催す。(が、福田さんはぼくの風邪がうつって咳がひどく、 あまり発言できなかった) |
| 2004年 1月〜 |
例会の会場をQWRCに移す。知り合い何人かが一緒になって運営している小さなフリースペース。 |
これ以降は、大きなイヴェント等はもたずに、毎月の「明るくゲイを語ろう会」と「OGCにゅうす」発行とを続けている。