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映画観てある記――2008年

映画について、徒然日記から抜き出してみました。
PARIS パリ更新マーク
我が至上の愛更新マーク
帝国オーケストラ
女工哀歌
マルタのやさしい刺繍
ベルリン・フィル〜最高のハーモニーを求めて
未来を写した子どもたち
ヤング@ハート
リダクテッド
宮廷画家ゴヤは見た
トウキョウソナタ
TOKYO !
わが教え子、ヒトラー
敵こそ、我が友
闇の子供たち
きみの友だち
NAKBA パレスチナ1948
潜水服は蝶の夢を見る
どこに行くの?
コロッサル・ユース
タクシデルミア
コントロール
人のセックスを笑うな
レンブラントの夜警

PARIS パリ

特別に面白おかしくドラマが作り上げられているわけではなく、現実にパリの街角で毎日繰り返されているであろう庶民の生活が、「観光名所」を背景に映し出される。普段着のパリ、といったところか。
しかし、日本人のぼくらから見ると、ちょいと変わっていると言うか、自分に正直なパリっ子ぶりが存分に発揮されていて、さすがはPACS法の国なのね、という感じだ。年齢差や社会的地位の違いとか、法的身分とかに囚われずに、気に入ったらやりましょう、という感じで、自分の性欲に忠実に従っているのだ。
ただ、まあ、ここで描かれているのは、みんなヘテロセクシュアルであるようだ。ダンサーのピエールはゲイっぽいようにも見えるが、ぼくにはよくわからない(「見分ける」能力がぼくには欠けてるのかも)。もっといろんなセクシュアリティが描かれていたら、より「PACS法の国」らしくなったのではなかろうか。それと、始めのうち、字幕が読みづらくてイライラしたけれど、劇場用フィルムでは改善されてるかしら?(11月12日、試写用DVD)

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我が至上の愛

なんとも大仰なタイトルだが、タイトルの大仰さに比べると作品が醸し出すたたずまいは思いのほかに静謐だ。静かすぎて、始めのうちはなかなか作品の世界に入って行けなくて、戸惑いを感じたほどだ。17世紀、パリの文学サロンで流行した大河ロマン小説のはしり『アストレ』(全編5000ページ )から「アストレとセラドン」の部分を部分を抜き出して、エリック・ロメールが映画化したという。
物語の舞台を5世紀ごろのガリア地方に設定した原作者が「古雅」な雰囲気を映しだそうとしているからか、ロメールの語法がこういう空気を漂わせるのか、劇的な「見せ場」になるはずのシーンでも、どこか優雅と言うかのんびりと言うか、淡々と物語が進行してゆく。『ロランの歌』や『トリスタン・イズー物語』などのフランス叙事文学を読んで、そのテンポについて行けなかったときの記憶が蘇ってきたような感じだ。ただ、映し出される風景も、出てくる俳優も、確かに美しい。ことに、セラドン役のアンディー・ジレなんか、まさに、ぼく好みの美青年だ。
アストレとセラドンは互いに愛し合っているにもかかわらず、二人の両親が長年不仲であることから、祭りのさなか、セラドンはわざと別の女性と踊ってみせる。その現場を目撃したアストレがセラドンを激しくなじり、二度と自分の前に現れるなと言い渡すところから、二人の運命は狂いだす。「ロミオとジュリエット」と同じような背景をもった話だが、「ロミオ」と違って本人以外の家人がほとんど登場しないので「両家の仲違い」は実感できにくいし、セラドンが別の女性と踊ったとは言っても、相手の女性に比べて彼の方はいま一つ乗り気でないような素振りを見せるので(少なくとも、スクリーンを見ている観客にはそのように見える)、ぼくからしたら、アストレの怒りはいまひとつ理解しにくい。しかも、アストレの怒りにしても、決別宣言を聞かされたセラドンの戸惑いにしても、「古雅」な風情の中で演じられるから、現代人のぼくには、どうもピンとこない。
絶望に駆られたセラドンが川に身を投げて自殺を図る件にしても、あまりにもセラドンが従順と言うかあっけないと言うか、「山」も「谷」もない。次のシーンでは、下流に流れ着いたセラドンをドルイド教の神官から神託を聞いたお姫様が下女を伴って探しにくるという急展開で、物語はことごとく淡々と進んでゆく。「そろり、そろりと参ろう。いや、何かと申すうち、はや、これじゃ」の狂言と同じ、省略形の進行パターンか。しかし、狂言のような急転直下の「どんでん返し」もない。「どんでん返し」になるはずの展開も、淡々と進行する。
セラドンのあまりの美しさに一目惚れしたお姫様は、自分の城に囲い込んで「自分の物」にしてしまおうと企むのだが、セラドンの心はいまだアストレにある。彼に同情的な侍女の手引きで、お城を抜け出し・・・。
巡礼にやって来たアストレと、女装して彼女に近づくセラドンの「再会シーン」は見物ではあるけれど(アンディー・ジレが、じつに美しい)、女性歌手が若い騎士オクタヴィアンに扮して元帥夫人とベッドを共にし、「彼」が「女装」してスケベなオックス男爵を懲らしめるという「ばらの騎士」のお耽美陶酔二重倒錯と比べると、こちらはあまりに清純で、肩透かしを喰らうほどだ。
う〜〜ん。全体的にどう評価していいか、よくわからん。牧歌的なおおらかさに身を委ねるか、一介の羊飼いに過ぎないセラドンにころっと行ってしまったお姫様の身分違いの「恋」をめでるか、「女装」したアンディーの美しさに酔うか。(11月7日、試写会)

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帝国オーケストラ

「ベルリン・フィル〜〜最高の・・・」がいまのベルリン・フィルを映し出す作品であるのに対して、「帝国オーケストラ」はナチス政権下のベルリン・フィルを検証する作品である。
ゲッペルスの悪知恵で「世界に冠たるドイツ文化」を背負って立つ広告塔として利用されたベルリン・フィルの「暗黒時代」を(音楽的にはひとつの頂点を築いた黄金期)、当時の楽員でいまも生存している二人にインタヴューし、亡くなった楽員の遺族・関係者の証言を集め・・・。「私たちは音楽のことしか考えていなかった」「生きていくためにはオーケストラにとどまるしかなかった」という、まあ、そうとしか言いようのない述懐が繰り返されるばかりで食い足りないと指摘する向きもあるだろうが、ぼくなんかからすると、後ろ指を指されることを覚悟のうえで、よう出てくれたなぁという感慨の方が強い。日本では戦時中の「広告塔」を追求するなんて聞いたことがないが、戦後ドイツでの非ナチ化裁判の徹底ぶりを考えると、そうそう簡単に顔が出せるものではないだろうと想像されるからだ。
終身常任指揮者だったフルトヴェングラー(ただし、戦時中はナチスに抵抗して、一切の公職から降りているから、常任指揮者は不在)のナチスに対する姿勢を問う声はいまも根強くくすぶり続けているが、楽員一人ひとりのあり方を問い直すことは、あまりなされてこなかった。そういう意味では貴重な記録だし、現在のベルリン・フィルの徹底した民主的運営(新しい指揮者を選定する過程を描いたDVD「アバドからラトルへの道」はとてもスリリング)は、こんな「歴史」を経てきたからなのね、とよくわかって興味深い。
ただ、映画の中で引用される戦時中の映像に関して言えば、いままでに何度も見てきたものが多くて、そういう意味では新鮮さに乏しい感は否めない。フルトヴェングラーがナチス式敬礼を拒否したシーンを見ることができたらよかったが、そういう場面は、ナチスが廃棄してしまっているのかもしれないとも思う。(10月28日、試写会)

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女工哀歌

過酷な労働条件の下、低賃金で働かされる中国ジーンズ製造工場の実態を描き出すドキュメンタリー。とは言え、いくつかの点で、正真正銘のドキュメンタリーなの?という疑問は湧いたんだけど。
「主役」の女の子が山奥の家から出稼ぎに旅立つ様子が映し出されていて、そんな時点からカメラが回ってるのて、ちょっと・・・とか、15歳以下の子どもは働けないことになっているのに、14歳の子が堂々と顔を晒して、「私、年齢をごまかしてるの」と言っていたりとか。第一、「ひどい状況」を告発されることになる映画に、社長自ら協力的に参加するなんて変じゃない?と思ってしまう。いくら「うちはまだましなほう。もっとひどい所ばかり」と言ってたって、ひどい状況であることに変わりなし。
・・・と文句を垂れてるように聞こえるだろうが、Made in Chinaの安価な製品に取り囲まれて安逸をむさぼっている日米欧の呑気なぼくたちに、世界規模の搾取の構図を突きつけるというメッセージの本質は揺らがない。
女の子たちがたくましくけなげに見えてしまうのは、ぼくが「上」から見ているからなのか、彼女たちが「怒り」を爆発させずに耐えて(=飼い慣らされて)閉まっているからなのか、中国人の表情の出し方が読み取れないからなのか?(10月24日、試写会)

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マルタのやしい刺繍

しわくちゃばあさんのマルタが、とってもかわいい。長年連れ添った夫が亡くなって、9ヵ月。人生のベテランが、そんなにいつまでも失意の底に沈んでるものなのかしら?と思わないでもないのだが、若いころに夢見たランジェリーショップを開こうと思い立ってからのマルタの輝きは、見ものだ。スイスの小さな山村のこと、頭の固い男どものお下劣な嘲笑が腹立たしいが、マルタとその友人は負けてなんかいない。幾度か挫折しそうになりながらも、そのたびに立ちあがる。七転び八起き。ばあさんは逞しい。
自分は浮気をしていながら、母親のマルタには「村の調和」を説く偽善牧師のヴァルター。「この村は老人を大切にする」なんて大言壮語するくせに、車椅子生活を送る父親を施設に放り込もうと目論む「党員」代表のフリッツ。口先だけの男たちを、決して声を荒らげることなく改心させてゆくばあさんたちのユーモラスなしたたかさが小気味よい。見ているこちらまで、思わず知らずにっこり、笑みがこぼれる。はじめは眉をひそめていた村人たちが、いつしかマルタたちのファンになってゆくところも、心地よい。「正論」を大上段に振りかざすことなく、こんな風に柔らかく、優しく人びとの心を変えてゆくことができたら、素晴らしい。
心持ちの優しい映画だ。映画の作りも上品でしゃれている。(10月24日、試写用DVD)

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ベルリン・フィル〜最高のハーモニーを求めて

1時間58分、ぼくの眼と耳はスクリーンに釘付けになった。2005年にアジア・ツアーを行ったベルリン・フィルを追いかけた作品だが、「ベルリン・フィルはいかにしてベルリン・フィルになるか?」という誰もが知りたがる秘密に迫った映画でもある。
映画は、新入団員を選ぶオーディションの場面から始まる。審査するのは指揮者でもなく楽団役員でもなく、楽員たちだ(ベルリン・フィルは自主団体。コンサートで座る席次も、コンサートマスター・首席を除いて決まっていないという)。仮採用された新入団員は本団員とアジアへの旅を共にして、十分な技量をもっているか、オーケストラに溶け込むことができるか、べルリン・フィルの団員にふさわしいか、十分に吟味されるのだ。ウィーン・フィルでも同じようなことが重視されているはずだが、楽員はただ単にうまいだけでなく、オーケストラの一員としてオーケストラの体質にマッチしているかが重要なポイントになるわけだ。
映画は楽員や指揮者サイモン・ラトルへのインタヴュー、練習風景、コンサートの模様、訪れた街々(北京→ソウル→上海→香港→台北→東京)の風景・人びとの表情で構成されるが、ことに楽員のインタヴューが素晴らしい。その一言ひとことが含蓄に富んでいて、さすが、とうなってしまう。だが、そんな彼らも子ども時代には周囲に溶け込むことができなくて、疎外感にさいなまされていたのだと知って愕然とするとともに、ある意味、ホッと安心したりもする。飛び抜けた才能をもった彼らでさえ、疎外感に苦しめられていたのだと知れば、孤立感を感じて苦しんでいる人でも希望がもてるというものだ。
中国・台湾の人びとの表情にも思わず見入ってしまったが、それに引き替え、東京の扱いの素っ気なさは、東京という街のつまらなさからくる必然なのか、世界が(ということは、つまり、ニューヨークのユダヤ資本が、ということでもある)日本を見捨てて中国に軸足を移しつつあることの反映なのか。
それにしても、上海、台北でのベルリン・フィルに対する渇望、熱狂ぶりは素晴らしい。こんなに街全体が興奮のルツボとなって一つの文化的イヴェントを迎えようとする姿は、日本からはとうの昔に消えてなくなってしまったものだ。日本だって、ベルリン・フィルが初来日したときにはこんな風だったらしいのだが、今となってはテレビニュースの古いフィルムで検証するしか「実感」する術はない。日本が「文化に冷たい国」になってしまったことを、この「ベルリン・フィル」によって教えられているような気もする。(10月22日、試写会)

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未来を写した子どもたち

舞台はインドのカルカッタ。売春することでしか生計を立てゆけない貧しい女性たちが住むこの街では、その子どもたちも母親の「生業」を継ぐのが当然という前提で日々の暮らしが営まれている。彼らに「明るい未来」は許されていないのだ。
売春女性の生活を取材するために街を訪れたニューヨークのフォトジャーナリスト、ザナ・ブリスキは、あまりの状況に息を呑み、そして、自分にできることはなんだろう?と考えた。考えた末に出てきたのが、子どもたちにインスタントカメラを買い与え、街を撮ってくるように教えることだった。ここでも、持てる者(=白人)が貧しき者(=インド人)を助けてやるという構図に変わりはないものの、「やる」という意識からできるだけ脱けようとしているところ、自分にできることは限られていると自覚しているところは、見ていて納得できる。フォトジャーナリストはカメラで勝負するしかない。そして、カメラを武器に、インド社会と対峙しているのが子どもたちだというのが、いい。
結果的には、明るい未来が開けてきた子もいれば、やはり、売春街から脱け出せずに終わる子もいるのだが、ザナは「善意」の押し売りをして無理やり子どもたちを救いだそうとはしない。100点満点の「ハッピーエンド」ではないのに、見終わって暗い気分に陥らないのは、子どもたちの撮ってきた写真が素晴らしいからだろう。子どもたちの表情も素敵だ。
ただ、気になるところもないではない。インドを描いた映画なのに、なんで英語なの?と首を傾げつつスクリーンを見詰めていたら、(当然のことながら)子どもたちがヒンドゥー語(?)を話していて安心したのだが・・・。ザナと子どもたちの間には通訳が入っているようだが、画面にも音声にもほとんど出てこないので、ザナの英語と子どもたちのヒンドゥー語が直接やり取りされているのかと錯覚しそうになってしまった。それくらいに、彼らの間のコミュニケーションはスムーズに交わされているように見える。だが、そう見えてしまうことが、はたして正しいのかどうか。異文化の衝突と言えば大げさだとしても、ザナはそんなにすんなりと街に溶け込んでいけたのだろうか?意思の疎通に苦しんだりしなかったのだろうか?ということが、やはり、気になる。(10月20日、試写会)

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ヤング@ハート

平均年齢80歳のじいちゃん・ばあちゃんの合唱団をおっかけた映画だというから、ほのぼのと心温まる「癒し系」の作品になってるのかな?と想像していたのだが、どうして、どうして。出てくるジィサン・バァサンは、みな、やけに元気がいい。確かに体にはガタがきていて、杖をついて舞台に登場したり酸素吸入器を脇に抱えて練習場にやってきたりといった状態だが、彼らの心も顔も、ピチピチはじけている。精神年齢は20歳・・・かも()。
「合唱」という言葉から、ぼくなんかはクラシックの楽曲を思い浮かべていたのだが(メンバーの多くはクラシック愛好家らしい)、彼らが歌うのはロックだったりジャズだったり、ラップだったりといった具合で、歌って踊ってノリノリだ。コンサート直前に、メンバーの何人かが亡くなるという悲しい事件に直面するが、誰もめげない。相も変わらず歌い続けること、それこそが亡くなった友の望んでいたことだと、メンバーのみんなが信じている。「私が死んでも、歌い続けて」と言うのだ。じつに逞しい。
ロックやジャズに疎いぼくは、ここで歌われる曲の原曲をほとんど知らないので、原曲との味わいの違いを楽しむところまでは行けないのだが、字幕で表される歌詞を読んでいると、へぇ・・・こんな深い意味をもった曲なんだ、フェミニズムや人権意識をシャレた台詞回しで表現してるのね、なんて「発見」をしたりして、歌っているジィサン、バァサンの豊かな表情と相まって、考えさせられるところも少なくない。頑固じいさん、意地悪ばあさんが一人も出てこないのも、素晴らしい。(10月10日、試写会)

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リダクテッド

ブライアン・デ・パルマ監督の新作。"Redacted"というのは「編集済み」といった意味の業界用語だという。「個人情報保護」とかいう名目で様々な情報が塗りつぶされて公表されることを言うのだが、それを口実に権力体制に不都合な情報も隠されてしまう。アフガン・イラク戦争を巡っては、欧米のマスコミがこぞってアメリカ政府の御用機関になり下がって、真実を民衆の目から遠ざけることに加担しているのに(日本のマスコミは、その壊れたコピー)、誰もそれを真正面から批判しない。
そんな現状に危機感を抱いたパルマ監督が、マスコミが報道しようとしない現地の「真実」を、実際にテレビニュースやインターネットで流されている映像と見分けがつかないほど巧妙に仕立てたフィクション映像を駆使して描き出してゆく。すべてが「報道済み」の映像のように見えるが、どれも役者による迫真の演技で構成されているという。唯一、本物の報道写真が使われるのは、エンディングで次々と映し出される戦争犠牲者たちの遺体だけだ。目の部分が黒塗りされた犠牲者たちの姿が、報道操作の現実を浮き彫りにする皮肉・・・。
この作品は、2006年のイラクで実際に起きたアメリカ軍兵士による14歳少女に対するレイプ強殺、家族4人の惨殺という悲惨な事件を、役者たちの「演技」によって「再現」してゆくが、彼らがそんな凶行に及んだ「背景」についてもきちんと描き出している。兵士個々人の出身階層や普段の性情、検問所の監視という任務につきまとう退屈な日常と(見ているこちらも眠くなってくる)、反面、恰好の標的にされる恐怖と緊張、取り調べ対象であるイラク人とは言葉が通じないままであるという理不尽、いつ終わるとも知れない占領作戦の泥沼・・・。
兵士が犯行に及ぶ件は目を覆いたくなるようなシーンの連続だが、それは犯人兵士本人の問題であるのは当然としても、兵士個人の責任だけに止めておいてはいけない問題だ。自分が戦場に赴くことのない本土アメリカ人が信じこまされている「アメリカの正義」は、真に正義たりうるのか。そんな「正義」のために自分の家族が戦場に駆り出され、罪もないイラク人が毎日殺されてゆくこの戦争の無意味さを、いったい、どれほどの人が眼を背けずに見つめることができるのか。問われているのは、スクリーンのこちらにいるぼくたちだ。間違った戦争に協力するために自衛隊を派遣してきた日本だって、この兵士たちの「共犯者」だと言うべきだろう。
底知れぬ不安・恐怖と、それを隠すための暴力・マッチョ性の誇示という視点からも、いろいろと考えさせられる映画である。(9月25日、試写会)

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宮廷画家ゴヤは見た

「カッコーの巣の上で」「アマデウス」のミロス・フォアマン監督らしく見応え十分で、2時近く、観る者を飽きさせることがない。舞台は18世紀末から19世紀始めにかけてのスペイン、と言うか、タイトルの主語はゴヤだが、物語の「主人公」はゴヤではなく「ゴヤが生きた時代のスペイン」だと言うべきか。ゴヤの目を通してスペイン社会を描き出すというとぼくには堀田善衛の『ゴヤ』四部作が印象深いが、フォアマンの方がもっと動的で、激動する時代の波に翻弄される人びとの人生が縦横に活写される。
異端審問所が人びとを恐怖のどん底に陥れていた暗黒時代が、ナポレオン革命によってやっと「解放」されるかと思いきや、スペイン・ブルボン王家に代わって皇帝となったナポレオン(の弟)軍が横暴の限りを尽くす時代へと変わっただけで、支配される者にとっては、幸せが遙かかなたのものであることに変わりはなかった。「宮廷画家」ゴヤは宮廷の中だけでなく、宮廷外の富豪から貧乏人までの様々な階層の人生を描き出してゆくが、一枚・一枚の肖像画から物語が膨らんでいって、描かれたモデルの人生が眼前に浮かび上がってくるところが見ものである。そして、モデルの人生を描くだけでなく、それが同時に時代の動きそのものと重なってゆくところに興味が尽きない。ゴヤが描いたのはそういう「絵」だったし、フォアマンもそういう映画を撮った。
この作品で中心を占める肖像画の一枚はロレンソ神父、異端審問を強化することで教会の権威を高めるべきだと強く主張する「熱心なクリスチャン」だ。幕開きのシーンで、「魔女」や「夢魔」を描きだし、宗教家の堕落ぶりを揶揄するゴヤの版画を厳めしい顔つきで回覧する神父たちに向かって、ゴヤを罰する前に、ここで描かれる魔女や異端者たちを断罪すべきだと強弁したのがロレンソ神父だった。彼に煽られて異端審問がむやみやたらに強化されたせいで、無実の罪を着せられたイネスが15年もの間、異端審問所の牢に監禁され拷問され続けることになる。こうして、イネスの肖像画を描きながらゴヤが口走った「魔女は美しい女性の姿をして現れる」という冗談が、現実の悲劇となってゆく。
ところが、イネスの父親に大金を積まれたロレンソが彼女を牢に訪ねてゆくところから、物語はお決まりのコースにはまってゆく。聖職者でありながら、ロレンソはイネスと関係をもってしまうのだ。まったく、なんというやつだ、というような話だが、イネスの側も、神父様にすがって救いを求めているうちに「ロレンソの愛」を受け容れてしまう。どこまでも一途にロレンソを思い続けるイネスと、変わり身早く世渡りしてゆくロレンソの対比が腹立たしいほどに強烈だ。よくある「男女の物語」、いつの世にもある背徳と虚栄の物語と言ってしまえばその通りだが、ロレンソの転身の早さ、屈託のなさには腹が立つものの、ある意味、「見事」ではある。ここまで割り切ることはできないとしても、大なり小なり、世に連れ人に連れして身を処してゆく小心者は少なくない。
ナポレオン軍の手先としてスペインに舞い戻ったロレンソが、今度は一転して異端審問を厳しく糾弾、断罪する姿も、恥じらいもなく平然と「昔の自分」を裏切る様に腹が立つが、ナポレオンが敗退して形成が逆転したとき、「悔い改めよ」と呼びかける司教の言葉を振り切って従容として処刑台に着くところで、一抹の救いが訪れる。再び寝返ったりしたら、それこそ踏んだり蹴ったりだ。泣きながら「悔い改めよ」と叫ぶ元同僚の神父たちのお人好しぶりこそ、理解に苦しむ。それにしても、ロレンソを演じたハビエル・バルデムの存在感はさすがだ。(8月18日、試写会)

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トウキョウソナタ

「家族ゲーム」現代版といった感じもするが、あちらは家族全員が横並び一列で食卓に着いていた。こちらは普通の向かい合わせ4人がけテーブルを囲んでの食事風景だが、それでも彼らの間には会話がない。向かい合わせに座っていても会話がない「今日的状況」の方が、事態はより深刻だと言うべきか(「家族ゲーム」のディテールはほとんど覚えてないので、正確な比較はできないが)。
兄貴坊主は大学に行くとか言って家を出たまま、ほとんど家にいつかない。何を考えているのか、さっぱりわからない奴だが、ある日突然、アメリカ軍の日本人部隊に入隊すると言い出す。お母さんはいつもみんなのために尽くしているが、誰にも尊重されていない空虚感を抱いている。弟息子は父親に黙ってピアノを習っている。しかし、食卓を囲んでいても、誰も本音を話さない。
親父は会社をクビになって職安と「炊き出し広場」を行ったり来たりの毎日なのに、そんな大事なことが家族の誰にも言えない。大事なことだからこそ、言えない。冴えない男で大した威厳もないのに、変にプライドだけは高いのだ。素直でないと言うか、かわいげがないと言うか、「どん詰まり」といった感じの男だ。長蛇の列をなして職安に並ぶ男たちも、パリッとスーツを着こんで炊き出しの列に並ぶ元リーマンたちも生気なく冴えないが、顔つきだけは「平気」を保とうとしているところがどこか滑稽だ。そんな現代の閉塞感を、父親役の香川照之は見ていて苛々させるほどにうまく体現する。
「戦後最長の好景気」という公式発表の裏側で進行してきた格差社会が、路頭にさまよう「普通のサラリーマン」を生み出す。偽りの繁栄が日本全体をむしばんで、表向きは不景気ではないことになっているから「どん底の暗さ」からはほど遠いが、なんとなく先が見えないといった「実感のない不安」が風通しの悪さを醸しだす。
試写室を出てきた人の口から漏れた「素晴らしい」という言葉がこの黒沢清作品を指してのものか、確かめようもなかったが、見終わったぼくには、なんとなくしっくりこないものが残った。ぼくが一番気に入ったのは弟息子役の井之脇海くんだが、それに比して、ドジな泥棒を演じた役所公司は一人だけ粘っこく過剰な演技をしていて、ほかから浮いているように感じられる。家にピアノもないのにわずか数ヵ月でめきめき腕を上げて、音大の付属中学校入試でドビュッシーの「月の光」を見事に演奏してみせる海くんの「天才ぶり」には、「御都合主義やな」との声も漏れたが、天才というのはそういうもので、凡人には想像もできないほどの急速な進歩を遂げるのが天才の天才たるゆえんだからぼくが驚かない。「天才ぶり」そのものには驚かないが、試験場にいた者すべてが立ち上がって、海くんの周りに集まって来るというラストシーンは、いかにもわざとらしく異様だ。
もっと大きな疑問は、このラストシーンに見出される「光」も、イラクに派遣された兄貴息子が現地でアメリカの犯した所業を目の当たりにして考えを改めたという件も、あまりに簡単に明るい未来に行き着いてしまったように思われることだ。自分のプライドのくだらなさとコミュニケーション不全症に気づいた父親が生まれ変わろうともがく過程を描かずして、「なんとなく希望が見えてきました。チャン、チャン」で終わってしまっていいものか。その点に関して「御都合主義だ」というのなら、ぼくも賛成だ。(8月6日、試写会)

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TOKYO !

「世界の映画界をリードする3人の監督」が"TOKYO"からインスパイアされたものを映像化した「奇跡のコラボレーション」だというのだが、どうもピンとこない。3人の監督というのはミシェル・コンドリー、レオス・カラックス、ポン・ジュノの3人で、その筋では有名な監督らしいのだが、幸か不幸か、ぼくは辛うじてレオス・カラックスの名を知っているだけだ。そのカラックスにしても、前作の「ポーラX」がぼくにはピンとこなかったから、この3人の名が並んでいたところで、ぼくの気持ちが動くこともない。部分的には笑えるところもあったけれど、でも、これって、なに?というのが率直な感想だ。
「インテリア・デザイン」(ミシェル・コンドリー):駆け出しの映画監督(もどき)のアキラと一緒に上京してきたヒロコは、高校の同級生だったアケミのアパートに居候しながら自分たちの住むアパートを探すのだが、どれもこれも「ええ・・・?いくら東京だって、こんなひどい部屋はないだろう」というくらいにとんでもない部屋ばかり。自分の「志」に自己陶酔するばかりで現実が見えないだけでなく、自分の恋人(?)の心も見えない能天気なアキラと、彼氏から疎んじられてどんどん空虚な心持ちになって行くヒロコの心の乖離がテーマなんだろうが、人物造形が薄っぺらでリアリティがない。
「メルド」(レオス・カラックス):東京各所のマンホールから突如現れて奇矯な行動を取っては、再びマンホールに消えていくという「地下道の怪人」を登場させるのだが、この「怪人」の風体は、ずっと地下に潜っていればこんな風になっても仕方ないと言えないことはないにしても、いわゆる「野宿者」を連想させかねない「薄汚さ」で、「怪人」が誰にもわからない絶滅寸前の言語を話す男であろうと、「人間が嫌いだ」「その中でも日本人が一番嫌いだ」であろうと、どうでもいいけれど、この「風体」と東京のオフィス街とを対比させて東京のいびつさを表そうとする発想には、どうも不快感を感じてしまう。これを「野宿者」のようだと感じるぼくの感覚が問題なのか、こんなところで「野宿者」のイメージを利用した監督がおかしいのか。
「シェイキング東京」(ポン・ジュノン):「ひきこもり」をテーマにしているようなのだが、これまたリアリティがない。戯画化されていると言ってしまえばそのとおりなのだろうが、「ひきこもり」と言われている人たちの「気持ち」がどこかに置き去りにされているような気がする。親から送られて来る金を払ってすべての日用品を玄関まで配達させることで、自分は部屋から一歩も出ずに一人暮らしを続けている一人の男が主人公だ。経済的には完璧に依存しているが、家事の面では「自立」している(本人はそのつもり)。毎日、毎週、同じリズムで同じテンポで同じことを繰り返す「几帳面な生活」だ。部屋の中も整然と整理整頓され、塵一つ落ちていない(ように見える)。毎週土曜日に現れるピザ配達のお姉さんにも、顔を見せることなくうつむいたままでピザを受け取っていたのだが、あるとき、ちょっとした間違いで顔を上げて彼女の顔を見てしまったところから、「ひきこも人間」の変容が始まる。まあ、しかし、こんな楽々とした気分で「ひきこもり」を続ける人がどれほどいることか。世間様が思うほど悲惨な物ではないと言いたいのかもしれないが、実際のところはどうなのか。それにしても、途中で「外界の人」として闖入する竹中直人(ピンチヒッターのピザ配達員。店主か?)は、どんな役をやっても同じことしかできない。脂ぎった下品さを強調しすぎだ。うんざり。(7月30日、試写会)

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がわ教え子、ヒトラー

敗色濃厚な第二次大戦末期のドイツが舞台。悪知恵が働く宣伝相ゲッペルスは、起死回生の策として、1945年の1月1日、百万人のベルリン市民の前でヒトラーに演説をさせて、その模様を収めたフィルムをドイツ全土で上映することを思いつく。ヒトラーの名演説で国民の愛国心を奮い立たせようという算段だ。ところが、肝腎のヒトラーは心身ともに病んでいて、とてもそんな演説をこなせそうにない。そこで、ゲッペルスが白羽の矢を立てたのが、ユダヤ人の名優アドルフ・グリュンバウム。偉大なる指導者として大聴衆の前に立てるよう、ヒトラーに対して「演技指導」を施させようというのだ。残された時間は、5日間。
実際に、ヒトラーの演説指導に当たった人物はいたが、史実に残る「先生」はドイツ人のパウル・デヴリエント(Paul Devrient  プレスが載せる読みは「ポール・デヴリエン」だが、その読みだったら「ドイツ人」にはなるまい。ドイツ人としては妙なスペリング?)であったという。それをこともあろうにユダヤ人に置き換えてみせたのは、自身ユダヤ人であるダニー・レヴィ監督の仕組んだ「時限爆弾」だ。ユダヤ人でなければ、怖くてとてもそんな設定の「お話」は作れないだろう。しかし、この「爆弾」のおかげで、さまざまな「真実」が見えてくることになる。秀逸だ。
現実には絶対にあり得ないことだが、ゲッペルスの下した命令によってグリュンバウムは強制収容所から呼び戻されて、宮殿のように豪華な総統府に招かれる。命令が下されれば、自分たちが信じてきた/信じ込まされてきたテーゼが崩れようがどうなろうが関係なしに、命令どおりにグリュンバウムを保釈する軍人たちの操り人形のような行動も笑えるが、半信半疑ながらゲッペルスの言うがままに「作戦」を実行するナチス幹部たちの戸惑いようも面白い。ユダヤ人から教えを乞う立場に立たされて、立腹し軽蔑しながらも、次第次第にグリュンバウムの指導に心酔してゆくヒトラーの変容ぶりも興味深い。何より、憎き敵であるはずのヒトラーに教えることになったグリュンバウムの逡巡が見ものだ。
余人を交えず二人だけでトレーニングを重ねるわけだから、殺そうと思えば殺すことのできる位置に彼はいる。しかし、この「仕事」と引き換えに家族を解放させ、収容所に入れられている多くのユダヤ人を解放させるという「取り引き」も、彼にとってはヒトラーを殺すことと同じくらいに重要だ。この「異常な事態」に直面した人びとの、その場、その場で見せる表情が観客の視線をそらさせない。
憎み合っているはずのグリュンバウムとヒトラーだが(二人ともファースト・ネームは「アドルフ」だ)、特にヒトラーからすると、ほかには二人といない「心の友」であるかのような親密な感情が芽生えてくるところも見ものである。他人の前では決して見せない弱みさえもグリュンバウムの前ではさらけ出し、祖先にユダヤの血が入っていること(信憑性のほどは知らないが、バッハ家にもワーグナー家にもユダヤの血が流れているという)、父親から虐待され続けてきたことなども告白してしまう。父親から折檻される夢を見てうなされるヒトラーなど、いかにも人間的でかわいげでさえある。
ただ、迫真の演技と緊迫したやり取りが続く中、最後の演説場面に至って「すべては作り話でした」みたいな展開になってゆくのをどう評価したらいいのか、ちょいと迷うところではある。(7月28日、試写会)

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敵こそ、我が友

ナチスの熱狂的支持者にして親衛隊のメンバーだったクラウス・バルビーの半生を描く。だが、単に彼の人生を描くだけでなく、戦後40年以上にもわたって彼が戦争犯罪の裁判を受けることなくのうのうと生き延び続けた「背景」にまで迫っているところが、この作品の興味深いところである。映画は当時の記録フィルムを交えつつ、バルビーの娘、腹心の部下、学者、ジャーナリスト、フランス・アメリカ・ボリビアの「関係者」、そしてバルビーによって迫害された被害者とその遺族等々の証言を次々と映し出してゆく。
ナチスが占領したフランスのリヨンにあって、彼はユダヤ人、共産主義者、レジスタンなど、ナチスにとって「反体制的」とみなされる人びとを拷問にかけ、収容所に送りこんで虐殺して行った。彼のやり口は残忍極まりないもので、情け容赦なく徹底して「被疑者」を締め上げていったという。その残忍非情な「手法」が「評価」されて、戦後はヨーロッパ駐留のアメリカ軍から庇護を受けることになる。共産主義との闘いに、彼がもつ情報網と「手腕」が必要だと判断されたからだ。当然のことながら、直接の「被害者」であるフランスからは追及の声が上がり、かばいきれなくなったアメリカはバチカンの裏ルートを利用して、彼を南米ボリビアに逃亡させる。彼はボリビアで商売人として、会社経営者として、かなり恵まれた生活を送ったという。クーデターを企てて政権を取ろうとした将軍たちも、そのたびにバルビーの力を借り、ためにバルビーは「政府」からも優遇されることになる。その間、彼は南米にナチスの千年王国「第四帝国」を築き上げる夢を持ち続けた。
そんなバルビーが、1980年代に至ってついに戦争裁判を受けることになったのは、アメリカにとってもボリビアにとっても、彼の利用価値がなくなってきたからだった。前半では映画の作りとしてやや平板な印象を抱かせるが(ここで描き出される事実は、一言では言い尽くせないほどに重たいけれど)、裁判のシーンでは一転してドラマチックな空気が漂い、底なしの奥深さを見せる問題の本質が、観る者に「お前はどちらに立つのだ?」と迫ってくる。このシーンがドラマチックな緊張をはらむのは、バルビーの犠牲になった人びとが証言台に立ち、涙ながらに当時のバルビーの残虐行為の数々を語るからだが、同時に「底なしの奥深さ」がその深淵を覗かせるのは、かつてアメリカ軍によってさんざんに痛めつけられた経験を持つヴェトナム出身のジャック・ヴェルジェスがバルビーの弁護に立って、「いったい、誰が彼を裁けるのか」と問いかけるからだ。
アメリカは「共産主義との闘い」のためにバルビーを利用した。法王庁も彼のために助力した(見返りに、少なからぬ金を得たという)。ボリビア政府も、彼の「手腕」を重用した。さらに、戦時中のフランス人だって、(一部だけのことだとは言え)積極的に、あるいは仕方なく、ナチスに、バルビーに協力した。彼の所業を赦すことはできないとしても、彼を裁くことができる者が、果たしているのかどうか。
主要テーマから少しずれるからか、戦後の反共の闘い(冷戦)はアメリカの威を借りることで隠然たる世界支配を続けようとするイギリスが仕組んだ対立構造であったという側面、この件だけでなく、アメリカが世界各国の反政府地下活動(たとえば、タリバンとかアルカイダも含めて)に裏金を流し続けてきたという側面については、それほど深くふれられていないが(前者については皆無)、そうした「事実」をも踏まえて、自国の利益のためなら、極悪非道の犯罪者であろうと「昨日の敵」であろうと利用し尽くし、利用価値がなくなった時点で掌を返すように「売る」という政治の裏面を考えるうえで貴重なフィルムである。(7月22日、試写会)

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闇の子供たち

すごい作品だ。ぼくは最終試写会に駆けつけることができたのだが、見終わって、ずしりと心にくる映画である。
貧しさゆえに少年少女が売買されてゆくというタイ社会の「闇」を、真正面から捉えた作品だ。「子どもの人身売買」と言うと、ぼくなんかは日本からも大挙して押し寄せている幼児買春のことを思い浮かべるのだが、もちろん買春問題も描き出すが、ここではある意味もっと重大な、臓器移植に関わっての「人身売買」の実態が暴き出されている。病気などで亡くなった子どもから臓器を取り出すのではなく、まだ生きている子の臓器を盗るのだ。しかも、その「客」というのが、15歳未満の子からの臓器提供が認められていない日本人だというから、これは決してよその国の他人事ではない。映画の中に「タイと日本は近い。地図で20センチだよ」という台詞が出てくるが、地図上の距離以上に、利害の密接なつながりという意味で日本とタイは近い。
物語は人身売買の特ダネをつかんだ新聞社が、現地駐在の記者(江口洋介)に裏を取るように指示するところから始まる。ネタを提供された本社の方では、死んだ子から臓器が提供される話だとばかり思っていたわけだが、取材を進めるうちに、それは生きた子が殺されてゆく話なのだとわかってくる。貧しさから我が子を手放す両親。方々からそんな子どもたちを狩り集めてくる下っ端のチンピラ(彼自身、子どものころ、オヤジ相手に売春させられていた)とそのボス。売春組織と結託した警官。仲介業者と、「闇の手術」を正式な手続きを経た手術であるかのように装って平然と執刀する教授。10歳そこそこの少年・少女を買春するオトコたち(夫婦で買春する白人カップルが出てくるように、買うのは男だけとは限らないだろうが)。「臓器提供」を心待ちにする日本人夫婦。子どもたちへの暴力根絶を訴えるNPOの人びと。様々な人たちの姿がていねいに描き出されてゆく。
重たいテーマを扱っているにもかかわらず、告発映画の説教臭さも人権啓発映画の気恥ずかしさも感じさせずに、見る者をぐいぐい引きつけてゆく。2時間18分が少しも長く感じられない。上映前には阪本順治監督の挨拶があったが、「ここにはすべての問題が集約されていると思います」という一言が印象に残った。まったく、そのとおりだ。
ぼくはスクリーンを見つめながら、「日泰交流」などとうそぶいてタイに買春ツアーに出かける(少なからぬ)ゲイたちのことを思い浮かべていた。成人した男を買ってるんだからいいじゃないか、と彼らは言うだろうが、同じ日本人同士のように経済格差がそれほどない間柄での売買ならともかく、圧倒的な格差の下での「売買」は、「売買」と並列に並べて語ることができる行為なのだろうかと首を傾げてしまう。この映画で描かれる幼児買春と日泰交流ゲイの買春と、本質的な違いがあるようには思えない。
そんなぼくの想いを裏付けるような「どんでん返し」が、幕切れ間近に展開される。梁石日の原作にはない筋だそうだが、この最後の一撃は効く。「他人事」では済まされないことを如実に示す止めの一発だ。(6月18日、試写会)

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きみの友だち

派手な「見せ場」や「山場」はないが、登場人物に優しく寄り添うようにゆっくりとしたテンポで描き出される物語が心にしみる。始まる前は、途中で居眠りしちゃうんじゃないかと思うほど眠たかったが(上映開始を待つ間、ほんの数分、ウトウト)、見始めたら、居眠りどころか最後までスクリーンに吸いつけられるように見入ってしまった。
若手写真家(福士誠治)がフリースクールの取材に訪れるところから物語は始まる。突然やってきた「部外者」から声をかけられても、誰も答えようとしないし、カメラマンが「期待」するような反応も返さないが、そんな「自分の世界」を守ろうとする子どもたちの表情が、とてつもなく魅力的だ。こんな表情を捉えることができた監督とカメラマンの資質に、まず驚く。「不登校児を受け容れる学校」を目指している(らしい)うちの新校の面々がこの映画を見たら、どんなことを思うだろう?などと考えながら、ぼくはスクリーンを見つめていた。
が、物語はすぐに、このカメラマンとボランティアで指導員をしている恵美(石橋杏奈)とのほんわかした恋愛話(?)に移ってゆく・・・な〜〜んだ、と思っていると、しかし、今度は彼女の少女時代に遡っていって、人生をずっと一緒に歩んでゆこうと誓い合った親友との友情が描き出されてゆく。
「みんな、なんて信じない。私にとって大事な人だけ」と言う恵美が選んだのは、ちょいとグズに見える由香。一見意地悪でわがままに見える恵美と、引っ込み思案でいつも恵美に振り回されているように見える由香は、小学校から中学校まで、ずっと一緒だった。Naoも腎臓を患っているだけに、腎臓病が悪化した由香が中学を卒業する前に亡くなってしまうシーンは、ぼくには「他人事」として見てはいられなかったが、性格がきつそうな恵美の「どこが好き?」と訊かれて、「歩く速さがおなじだからかな?」と答える由香の答えには思わずうなずいてしまった。歩く速さが同じ・・・。とても意味の深い言葉だ。
恵美と由香の物語のほかに、「ずっと一緒よ」と言い合っていた親友に彼氏ができて神経性の近眼になってしまう女の子の喪失感、小学校からの幼なじみがサッカー部の中心選手になっていくことで自分だけが取り残されてゆくように感じる男の子の焦燥感が描き出されて、「まさくんとは人生の同行者でありたい」なんて言っていただけに、ぼくにとっては身につまされることも多かった。直接、誰かに感情移入したわけではないけれど、「わかる、わかる。その気持ちと」いった感じで物語の世界に浸っていた。じーっと登場人物を映し続けたり、カメラを次第次第に遠ざけていったり、カメラアングルと心理の動きがピッタリ一致して、無理なく物語の世界に引き込まれてゆく。
ただ、カメラマンと恵美の「恋愛話」は、やはり、ちょいと蛇足かも。(5月28日、試写会)

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NAKBA パレスチナ1948

「NAKBA パレスチナ1948」。正直言って、しんどい映画だ。フォトジャーナリストである広河隆一の監督一作目だというからまさくんを誘ったのだが、彼もぼくと同じような感想ももったようだ。彼はおととしのバースデー・プレゼントに、広河隆一監修の「世界の戦場から」シリーズ(岩波書店)がほしいと言ったくらいの人なんだけど。
ぼくたちが学校の授業で習った「キブツ」は、イスラエルで始まった新しい共同農業の試み、といったプラス評価の動きとして紹介されていたように記憶するのだが、じつは、パレスチナの人びとが暮らしていた地区にイスラエル人が入植してきて「のっとった土地」だったのだということが、この映画で初めてわかってくる。広河は若いころ、はじめはボランティアとして「キブツ」で働いていたのだが、あるとき、ちょっとおかしいぞと気がついて、以来、ずっと、その地を追われたパレスチナの人びとを訪ねて回ることをライフワークにしているのだという。
若いころに抱いた「疑問」にずっとこだわり続け、それを追求し続ける姿勢には敬服するけれど、「作品」として見ると、「本職」である写真が力強く迫ってくるのに対して、動画として表された映画が何ほどのものも語らないのに愕然とさせられる。ただ単に、手持ちカメラの激しく揺れる映像が「映画酔い」を誘うだけだ。激しく揺れる場面こそ、戦火を乗り越えて対象に迫ってゆくジャーナリストの真剣な姿を映し出すものであるはずなのに、出てきた「映像」にはそれを伝える力がない。う〜〜ん。(4月1日、試写会)

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潜水服は蝶の夢を見る

まさくんの仲間は「普通じゃん」と思ったそうだが、ぼくにはなかなか面白かった。「現場」を実体験してない人間の感想、という範囲内のことかもしれないが、左目しか動かせないようになってしまった主人公の「目」から世界を見ているという作りは、映画の作りとして、とても興味深い。実際にこんな風に見えるのかどうかは「死後体験」と同じことで、想像の域を出ない話であるには違いないのだが、彼の意思が周囲に少しずつ通じてゆくようになるまでの間は、徹底して本人の「目」から、というカメラアングルを崩さない。首も動かすことができないから視界もきわめて限られているし、医者や看護師の対応に不満があっても抗弁できずにいる様も、なるほど、こんな感じなのかもね、さぞかし苛々することだろうなと納得させられる。
看護師の考案した、アルファベットを順に読み上げて、伝えたい単語の文字のところに来たら目配せして教える、いくつか文字が組み上げられたら「単語」を予想してみせるから、当たっていたらウィンクする・・・気の遠くなるような訓練が繰り返される。だが、看護師は根気強く訓練を積み重ねて、しまいには、それで一冊の本が書きあげられるほどにスムーズな意思疎通ができるようになってゆくのだ。
いろんなエピソードがおしゃれ&辛辣に描かれていて、やっぱりおフランスね、といった感じで、歳を取って動けなくなったお父ちゃんの渋い演技もよかった。だが、ただ単に綺麗でおしゃれというだけでなく、かいがいしく世話をする別れた妻(「子どもたちの母親」。「結婚」はしてないのかも)に、愛人からかかって来た電話に「代返」させるシーンは、なんとも、むごい。見ていて辛い場面だが、しかし、見応えがある。単なる「健気な障害者の物語」ではないところが、いい。(4月1日、劇場)

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どこに行くの?

ボーイズ・ラブ映画の一つであるらしいだが、これはアカンかった。ぼくの好きな柏原崇くんの弟、収史くんが主人公なのだが、彼に迫るゲイのおっさん二人が「いかにも変態」といった描かれ方をしているし(いつまで古臭いイメージを引きずっているのか?)、ニューハーフを好きになった収史くんは「彼女」と「結婚」しちゃうし。彼が惚れたニューハーフは、人気が高い人らしいんだけど、言うほどには美しくなかったし(すっピンに近い?)。収史くんは、兄貴の崇くんほどには美しくなかったし。だんだんトイレに行きたくなってきて我慢してたこともあって、最後の辺りは早く終わらないかとモジモジしてしまった。(4月1日、劇場)

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コロッサル・ユース

プレスシートにはカンヌ映画祭で前作(ペドロ・コスタ監督「ヴァンダの部屋」)以上の衝撃を与えたとあるが、正直言って、ぼくには少々しんどい映画だ。いつものことながら、ぼくにはカンヌの「価値観」がさっぱりわからない。155分間、いつになったら物語の筋が見えてくるんだろう、いつ終わるんだろうと、ひたすら待った。
ポルトガルのリスボン北西郊外、フォンタイーニャス地区を舞台に一人のアフリカ系老人・ヴェントゥ−ラの生き様を描く。カーボ・ヴェルデ諸島から来たアフリカ系移民が居住する地区だという。ヴェントゥーラは、ある日突然妻に家を出てゆかれて途方に暮れるのだが、途方に暮れたまま、独立した(?)「我が子」たちをあちこちに訪ね歩いて、何をするでなしにただ話し込んで途方に暮れ続ける。妻が出て行った「理由」は最後までよくわからなかったが、「わかりやすい理由」なんて、そもそも必要ないのかもしれない。貧しさ、貧民街、苦しい生活、改良住宅への強制移住・・・そのすべてが「理由」なのかもしれない。
観客におもねるBGMが流れることもなく、台詞回しのうまいプロの役者が雄弁に語ることもなく、「素人」の出演者がボソボソと語り合う「日常」をカメラはただただ追うばかりだ。彼らの貧しさと、行く先の不安感・閉塞感がそのまま画面に投影されて、どんどん気分が沈んでくる。物語の筋が見えてこないから(元々そんなものはないのだろう)、移民たちのやり場のない不安がこちらにも乗り移って来るようで、やり切れない気分になってくる。居眠りしてしまえば楽になったのだろうが、居眠りしてはいけないような気持ちにさせる映画だったから、なおさらしんどい。う〜〜ん。(3月21日、試写会)

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タクシデルミア

ハンガリーのぶっ飛び映画だ。宣伝会社RCSの佐藤さんは「久しぶりにこういう映画が上映できて嬉しいです」と満面に笑みを浮かべていたが、ぼくにしてみれば、もっとぶっ飛んでくれててもよかった。所々、ぶっ飛び方に緩みが見られたように感じられたのが、逆に気になったほどだ(ただ、ほかの人はぶったまげていたようで、「感想を聞かれたら(何と言ったらいいか)困るわ」「美意識が全然違うてことだけは確かやな」などと言いながら試写室を出て行った)。
サブタイトルには「ある剥製師の遺言」とあるけれど、主役の剥製師が出てくるのは終わりごろになってからだ。ど田舎で意地の悪い「中尉殿」にこき使われるしがない一兵卒のおじいちゃん、「大食い競争」の有名選手であるお父ちゃんの話がわりと長く続く。三代にわたる物語だが、見たところ3人は似ていない。がりがりに痩せこけたおじいちゃんとぶくぶくに太ったお父ちゃん、スリムに引き締まった息子。でも、なんとなく、ああ、これが前の場面の息子なのね、とわかるようになっているのが不思議だ。
意地悪中尉殿に叱られてばかりのおじいちゃんは、掘立小屋の板の隙間から垣間見える中尉の娘たちを盗みしてオナニーすることだけを唯一の楽しみとして、エロエロ妄想に耽って日々を送る。チンポから火を噴くくらいに溜まっているのが笑える。ぶくぶくに太った中尉殿の妻から(夫からは得られない?)激しいセックスをせがまれて、その結果、大食い競争の「息子」が生まれてくる。
幻想と妄想が渦巻くシュール(?)なおじいちゃんの物語の後は、リアルと言うか即物的と言うか、食べて吐いて食べて吐いて食べて吐いて・・・どれだけの量の食い物を喉に通したかを競い合う「大食い選手」のお父ちゃんの物語だ。共産党時代のハンガリーが実際にこんなことをしていたかどうかは無視して、しかし、いかにも共産党時代を髣髴させる国を挙げての熱狂ぶり、マインド・コントロールぶりがこれでもか、これでもかと示される。こんなアホくさいことに熱狂させて、国民の目を現実の貧しさから逸らさせていたんだろうと思わせるような、アホくさい物語だ。
やたらぶっ飛んでいた2人に比べると、息子の剥製師は物静かでずっとまともだ。一見、インテリのようにさえ見える。だが、彼のやったことは、2人に負けず劣らずぶっ飛んでいる。心臓の弱い人には、最後の辺りはきついかもしれないが、ぼくはうっとりとスクリーンを見つめていた。美しい・・・。何がどう「きつい」のか、「美しい」のか、ネタをばらすわけにもいかないので、ここには書けないが、極限まで太りまくって富士山のようになってしまった(どっしりと動かない→動けない)親父の世話をする息子の、 親父に対する嫌悪と憎悪と哀惜の情が複雑に絡み合った結末には、思わず息を呑んでしまったとだけ言っておこう。(3月12日、試写会)

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コントロール

23歳で早逝したロック・ヴォーカリスト、イアン・カーティスの人生を描く。ぼくはこの手のジャンルには疎いからまったく知らなかったのだが、1970年代イギリスで「伝説」となったロックバンド、"ジョイ・ディヴィジョン"(ナチスの将校用慰安所の意)で歌っていたのだという。
実際のイアンがどんなお顔をしていたのかは知らないが、この映画におけるイアンは少し翳があって、うちに秘めた何物かを感じさせるぼく好みの美形くんだ(サム・ライリー。自身もインディーズ・バンドで歌っている)。物静かで、いつも何か思いつめているような表情。歌いだしてしばらくすると、突然、何物かが取り憑いたように全身を奇妙にくねらせるパフォーマンスが印象的だ。
片田舎で冴えない毎日を送っていた若者が、セックス・ピストルズのマンチェスター・ライブの洗礼を受けてロックの世界にのめりこんでゆく。けだるい日常と、エキセントリックなステージ。献身的に尽くしてくれる妻デボラと、彼のインタヴュー記事を書いたことで「恋」に陥ってゆくアニーク。両極の間で引き裂かれてゆくイアンの心。「こういう世界」ではよくある話ではあるけれど、主役が好みの美形だったからか、映画のつくりがちゃんとしていたからか、なかなか見せてくれる。サム・ライリーが歌っているシーンを見ていると、なんとなくこちらの体も揺れてくるのが、ロックに疎いぼくとしては不思議だ。モノクロ画面が時代の空気を感じさせるのも、いい。(3月3日、試写会)

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人のセックスを笑うな

タイトルの奇抜さにひかれて期待して観に行ったのだが、こちらも、ちょいと・・・という感じで終わる。山崎ナオコーラのデビュー作『人のセックスを笑うな』を井口奈己監督が描いた作品だが、 これも137分の長編だ。長い。「もったいなくて、切れなかったらしいです」と宣伝会社の人は言ってたけれど・・・。う〜〜ん。
19歳の美術学校生「みるめ」(松山ケンイチ)が20歳年上でリトグラフの産休講師であるサユリ(永作博美。みんなからは「ユリちゃん」と呼ばれている)に惹かれてゆくという話だが、 永作がかわいげというか幼げに見えるせいで「20歳の差」が実感として感じられなくて、困った。「年齢差」が一番大事なテーマだというわけではないのだから、別に困る必要もないのだろうが、 二人の「ちぐはぐさ」の一部がぼやけてしまったのも確かだろう。
「ちぐはぐ」なのは歳の差ゆえのことではなく、うぶで純朴で、妙にいちずで不器用な「みるめ」と、自分が結婚していることにはまったく囚われずに、「みるめくんに触ってみたい」と思ったらそのまま行動に移してしまうユリとの、感覚の落差ゆえなのだが、 ユリは「恋愛」とか「結婚」といった物語(=枠)から完全に解き放たれた人なのだ。「付き合う」という位置づけさえ、彼女にとっては意味をなさない。そのとき、そのときに感じたことを、そのまま行動に移してしまう。そういう意味では「恋愛文化」に対する反逆とも言えるが、そんな大層な「構え」もない。 その自由さがみるめを惹きつけ、同時に、彼を不安にさせる。
そうした捉えどころのない感覚を描き出すのに、井口奈己監督はこのようなヤマなしオチなしの淡々とした時の経過を必要としたのだろう。それはそれでわかるんだけれど、見ている側としては、なにがしかの「山」を求めたくなるのも事実だ。
主人公の名前「みるめ」からは性別の臭いがしてこないが(原作者の「ナオコーラ」も、どっちかわからん)、そのわりに相手役の「ユリ」は平凡な名だ。変わった名で登場させたついでに二人を同性にしてしまったら、もっと掴み所のない映画になって面白かったかも・・・と思ったりもするがどうだろう。(1月16日、試写会)

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レンブラントの夜警

期待半分、不安半分でスクリーンの前に座る。「半分の不安」というのは、「コックと泥棒、その妻と愛人」の後くらいから、映像的には美しんだけど・・・よくわからん、 といった感じで、ぼくにはグリーナウェイの「表現」に付いていけないようになっていたからだ。139分の「レンブラントの夜警」も、やっぱり置いてかれてしまった(それにしても、長い)。構図的にも色彩的にも、カメラワークとしても完璧なんだろうけど、どうも乗れない。完璧であるがゆえに(素人には)わかりにくい、のか。
「物語」は、画家として絶頂期にあったレンブラントが、アムステルダムの市警団から依頼された集団肖像画を描いたことをきっかけとして、画壇の中心から外れてゆく様を描き出していくのだが、 彼の代表作として有名な「夜警」が、どうしてそんな「結果」を招くことになったのか、その謎解きがどうもわかりにくい。集団肖像画であるから「登場人物」が多いのは仕方ないとしても、はじめのうちは、誰が誰やらさっぱりわからない。 なんとなく「人物」がわかりかけてきたころには、物語は半分くらい終わっていた。
表向きは立派な「仕事」をしているように見えた市警団が、じつは金とセックスでドロドロになっていたのだという「事実」を絵筆で告発してしまったために、レンブラントは依頼主たちからさんざんにこきおろされることになる。 これが「夜警」の真実なのか、グリーナウェイの単なる夢想でしかないのかはぼくにはよくわからないが、肖像画からそこに描かれた人びとの裏面を読み取って行くのは、 スリリングな知的作業ではある(はずだ)。スクリーンを見つめながら、ぼくは堀田善衛《「えい」は旧字》の『ゴヤ』4部作を思い出していた。 だのに、堀田の力作を読んだときのようなワクワクが、グリーナウェイの画面からは感じ取れない。休憩のときに、知り合いのライターが「爆睡しとったわ」と苦笑していたけれど、ぼくはそこまでは言わないものの、 物語に入り込めないもどかしさは否定できない。
敵対者たちに襲われて、全裸にされたうえに目を潰されてしまうという妄想にレンブラントが囚われるシーンが前後2回ばかり映し出されるが、幕開き直後の1回目は、「闇」を描き出したレンブラントにふさわしいシーンでワクワクさせてくれたんだけど・・・。(1月16日、試写会)

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